桜田淳子という存在〜登場の背景
70年代という時代は何だったのか。
大衆文化への移行期ではないかと思う。
この時代というものを、ある番組をとおして紐解いてみたい。
1970年2月、『時間ですよ』という人気ドラマがスタートした。
主演は森光子、他には、堺正章や悠木千帆(後の樹木希林)らが出演し、天地真理、浅田美代子らの出世作にもなった。伝説の番組だ。
この、番組は白黒の番組としてスタートをきった。
まだ、国民が買えるのは、白黒テレビが主流だったことも影響しているのだろう。
1971年7月から、『時間ですよ』はカラー番組となる。そして、天地真理が起用され、国民的アイドルへと成長していく。
1973年2月からは、浅田美代子が登場し、やはり国民的アイドルとなる。
この番組から生まれたヒット曲が、浅田美代子「赤い風船」 、堺正章「街の灯り」である。いずれも心に残る名曲だと思う。
1969年に、日本は世界でカラーテレビ生産第1位国になるものの、1970年にアメリカにダンピング認定を受け、日本でも二重価格への消費者運動あり、カラーテレビの価格が下がった影響もあり、73年には、カラーテレビの普及率が、白黒テレビを上回るようになった。
しかし、さらなるテレビの販売を高めるには、映像の精度を高めなければならない。
『時間ですよ』は、そんなカラーテレビ時代の移行期を映し出すものとしては興味深い。
そのような時代背景の中、放送業界の使命として、いかにカラーテレビに見合う番組作りをするかにあったといえよう。
そのためには、よりビジュアルなものが求められる。
白黒テレビに映し出される映像は、やはり、ラジオの延長線上で、それまで、アナウンサが実況放送していた部分を映像で補完するようなものだったように思う。
事実、白黒テレビで出演者の顔の表情の変化まで映し出すことには限界がある。
テレビ局としては、カラーテレビに相応しい、芸能人をもとめるのは必然だった。
カラーとなった『時間ですよ』から、天地真理が生まれ、浅田美代子が生まれたのは余りにも当然過ぎたのかもしれない。
そして、テレビ局は独自のオーディション番組をつくり、あらたな可能性を発掘していく。
その代表が、1971年10月スタートの『スター誕生』だった。
それでも、芸能界の敷居は高かった。
ナベプロの一極支配のもとでは、視聴者といえども、おいそれとオーディションに参加するには抵抗があり、森昌子のような聴かせるタイプが主流であった。
カラーテレビでなくてもよかったのかもしれない。
そんな中、翌年72年7月、新たな才能が登場する。
それはテレビ関係者からみて、カラーテレビ時代のビジュアルの主役になれる逸材だった。
阿久 悠さんの表現を借りれば、『蛍光灯の淡い光』に包まれたような存在だった。
それが、一人の14歳の少女の運命を決定した。
桜田淳子という存在を、目撃したことにより、状況は一変したといっていい。
『スター誕生』という番組への関心度は高まり、番組の目的は『第二の桜田淳子』を探し始め、応募者は殺到した。
山口百恵さんもその一人だ。12月の決戦大会で準優勝にとどまっている。それでも、20社のスカウト陣の目を引き付けた。
そこには『第二の桜田淳子』を見たのだ。
桜田淳子は、デビュー前にして、関係者を色めき立たせた。
そして73年2月25日歌手デビューした。
桜田淳子は、各テレビ局独自のオーディションでもその評価は1番だった。
それは、番組出演への優先枠を意味する。
その才能は、当時芸能界のナベプロにも影響を与えた。
刺激を受けたナベプロは、1973年4月より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送を開始する。
しかし、『あなたならOK!』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビがナベプロの歌手も出演していた『紅白歌のベストテン』を放送していたため、ナベプロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定。
そこで、ナベプロと日本テレビは全面対決となる。流通革命と同じ構図だ。
チャネルの主導権争いを制するのは、供給者なのか、媒体なのか。
勝敗を分けたのは、ファンの目線だった。
『スター誕生』出身として、前年の森昌子、その年2月の桜田淳子のみならず、5月21日山口百恵も歌手デビューし、その後も番組には魅力的スター候補生が登場した。
もはや、旧態依然とした帝国には芸能界の流れ、勢いはとめる事はできない。『あなたならOK!』はその年の9月で番組を終了する。
それでも、ナベプロには道があった。
その年の新人賞レースは熾烈だった。
カラーテレビ時代の『華』を求める戦いといっていい。
ナベプロの望みは、香港出身の『アグネス』だったのかもしれない。
そして、次なる攻防が続けられるのだが、攻防の歴史の果てに傷つく者があることを、この時代人たちは予測しただろうか。
大衆文化への移行期ではないかと思う。
この時代というものを、ある番組をとおして紐解いてみたい。
1970年2月、『時間ですよ』という人気ドラマがスタートした。
主演は森光子、他には、堺正章や悠木千帆(後の樹木希林)らが出演し、天地真理、浅田美代子らの出世作にもなった。伝説の番組だ。
この、番組は白黒の番組としてスタートをきった。
まだ、国民が買えるのは、白黒テレビが主流だったことも影響しているのだろう。
1971年7月から、『時間ですよ』はカラー番組となる。そして、天地真理が起用され、国民的アイドルへと成長していく。
1973年2月からは、浅田美代子が登場し、やはり国民的アイドルとなる。
この番組から生まれたヒット曲が、浅田美代子「赤い風船」 、堺正章「街の灯り」である。いずれも心に残る名曲だと思う。
1969年に、日本は世界でカラーテレビ生産第1位国になるものの、1970年にアメリカにダンピング認定を受け、日本でも二重価格への消費者運動あり、カラーテレビの価格が下がった影響もあり、73年には、カラーテレビの普及率が、白黒テレビを上回るようになった。
しかし、さらなるテレビの販売を高めるには、映像の精度を高めなければならない。
『時間ですよ』は、そんなカラーテレビ時代の移行期を映し出すものとしては興味深い。
そのような時代背景の中、放送業界の使命として、いかにカラーテレビに見合う番組作りをするかにあったといえよう。
そのためには、よりビジュアルなものが求められる。
白黒テレビに映し出される映像は、やはり、ラジオの延長線上で、それまで、アナウンサが実況放送していた部分を映像で補完するようなものだったように思う。
事実、白黒テレビで出演者の顔の表情の変化まで映し出すことには限界がある。
テレビ局としては、カラーテレビに相応しい、芸能人をもとめるのは必然だった。
カラーとなった『時間ですよ』から、天地真理が生まれ、浅田美代子が生まれたのは余りにも当然過ぎたのかもしれない。
そして、テレビ局は独自のオーディション番組をつくり、あらたな可能性を発掘していく。
その代表が、1971年10月スタートの『スター誕生』だった。
それでも、芸能界の敷居は高かった。
ナベプロの一極支配のもとでは、視聴者といえども、おいそれとオーディションに参加するには抵抗があり、森昌子のような聴かせるタイプが主流であった。
カラーテレビでなくてもよかったのかもしれない。
そんな中、翌年72年7月、新たな才能が登場する。
それはテレビ関係者からみて、カラーテレビ時代のビジュアルの主役になれる逸材だった。
阿久 悠さんの表現を借りれば、『蛍光灯の淡い光』に包まれたような存在だった。
それが、一人の14歳の少女の運命を決定した。
桜田淳子という存在を、目撃したことにより、状況は一変したといっていい。
『スター誕生』という番組への関心度は高まり、番組の目的は『第二の桜田淳子』を探し始め、応募者は殺到した。
山口百恵さんもその一人だ。12月の決戦大会で準優勝にとどまっている。それでも、20社のスカウト陣の目を引き付けた。
そこには『第二の桜田淳子』を見たのだ。
桜田淳子は、デビュー前にして、関係者を色めき立たせた。
そして73年2月25日歌手デビューした。
桜田淳子は、各テレビ局独自のオーディションでもその評価は1番だった。
それは、番組出演への優先枠を意味する。
その才能は、当時芸能界のナベプロにも影響を与えた。
刺激を受けたナベプロは、1973年4月より独自にオーディション番組『スター・オン・ステージ あなたならOK!』をNETテレビ(現・テレビ朝日)で放送を開始する。
しかし、『あなたならOK!』の放送日時となった月曜日の夜8時という時間帯は日本テレビがナベプロの歌手も出演していた『紅白歌のベストテン』を放送していたため、ナベプロは『紅白歌のベストテン』からの撤退を決定。
そこで、ナベプロと日本テレビは全面対決となる。流通革命と同じ構図だ。
チャネルの主導権争いを制するのは、供給者なのか、媒体なのか。
勝敗を分けたのは、ファンの目線だった。
『スター誕生』出身として、前年の森昌子、その年2月の桜田淳子のみならず、5月21日山口百恵も歌手デビューし、その後も番組には魅力的スター候補生が登場した。
もはや、旧態依然とした帝国には芸能界の流れ、勢いはとめる事はできない。『あなたならOK!』はその年の9月で番組を終了する。
それでも、ナベプロには道があった。
その年の新人賞レースは熾烈だった。
カラーテレビ時代の『華』を求める戦いといっていい。
ナベプロの望みは、香港出身の『アグネス』だったのかもしれない。
そして、次なる攻防が続けられるのだが、攻防の歴史の果てに傷つく者があることを、この時代人たちは予測しただろうか。
2012-12-26 19:30
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こんばんは。
ところで、イワタヤイセタンさんのブログは、何種類かありますよね、、現在は、これが、メインでしょうか?
よくわからないので、質問させていただきました。
長文の記事で、すごいですね、、何からコメントしていいか、わかりませんが、、、
カラーテレビの登場がアイドルを求めたというのは、興味深い話です。
1973年の「時間ですよ」の浅田美代子さん、可愛かったです。大好きでした。おっしゃるとおり、「赤い風船」「街の灯り」は、いい曲で、1973年のレコード大賞では、両曲とも聴けました。
「街の灯り」の方は、本日のNHKの番組で聴くことができました。改めて、いい歌であることを再認識しました。
ナベプロと日本テレビとの対決は、有名ですね、、
スター誕生は、すごかったですね、、
あのナベプロをある意味圧倒しましたから、、
アグネスチャンは、ヒットしましたが、レコード最優秀新人賞は、取れませんでしたね、、、当時、自分は、アグネスは、とれないとは、思っていました。なぜならレコード大賞は、古い考え方の審査員が多かったからです。(演歌趣向。実力趣向。本物趣向、正当派趣向)
とりとめもないコメントですいません。
by sjghd (2012-12-29 21:18)
あけましておめでとうございます。
昨年は、いろいろ勉強させていただきました。
コメントもさせていただきましたが、硬い表現しかできず少し反省しています。
それにしても貴重な資料の数々は当時を振り返ることができ、楽しいものでした。
それと、すいません。こちらのブログは試しに作っていたので、余り手をかけていませんでしたので、コメ返し遅くなりました。
どれが、メインかといわれると、何ですが、
GOO 『風に吹かれても雨にうたれても』がメインです。ややもすれば、世の中から、見過ごされていた点、茶化されていた点、誤解されていた点を、同時代感覚で、掘り起こそうとしたものです。
なので、よく見かけるものを題材にしています。
so-net 『何をかいわんや』は、淳子さんの功績、そしてそれを阻むもの、を、当時の現象などをまじえながら、表現しようとするものです。
挑戦の対象は、統一教会であったり、報道のあり方であったり、政治のあり方であったり、様々ですが、できるだけ現在につながるように展開しています。オムニバス的ですが、すべての記事が間接的にせよ淳子さんに行き着くように構成しているつもりです。
so-net 『続 風に吹かれても雨にうたれても』
は、上の二つを昇華させようと思いました。
でも、現時点では、困難が付きまといます。
というのは、淳子さんにのしかかる、重しです。
解決するには、時の流れが必要だと思います。
しかし、時の風は吹き始めたように思うのです。
今年を逃すと、sjghdさんの言われるように、復帰は難しくなると思います。
すいません、訳のわからない話で、答えになってるでしょうか。
カラーテレビですか、
当時を思い出すと、小学低学年では、黛ジュン、奥村チヨ、伊東ゆかり などが、子供の話題でした。ちなみに私は黛ジュンです。
そして、チャンネル権は親父にありました。
高学年では、天地真理、南沙織といった所でしょうか。私は南沙織でしたが、表向きは天地真理でした。
真理ちゃんにしてもシンシアにしても、歌的にはと思っていたと思います。
やはり、時代は、コンテンツつまりはアイドル、華を求めていたと思います。
レコード大賞新人賞対象も、女性が多いのはこのためだと思います。
しかし、淳子さんまでは、テレビ局が動かせるアイドルではなかったと思います。
それが、革命ということなのでしょう。
答えになってますか。
時間ですは、クオリティが高かったと思います。楽しませたり、考えさせたり、いい番組でした。それに、心に残る名曲を残してくれました。
ナベプロと日テレもそうですが、正直ホリプロが、スカウトキャラバンで独自の発掘を始めたあたりから、雲行きが怪しくなったように思います。また、プロダクション主導のアイドルにシフトし始めたように思うのです。郁恵ちゃんは好きでしたが。そのゆり戻しが、今に影響を与えているのかとも思えます。
73年レコ大懐かしいです。モチロンテレビにへばりついていました。
正直アグネスだと思いました。おかげで、翌年1月の熊本でのコンサートのチケットを買いました。しかし、はずれ馬券でしたかね。これは内緒で。
新人賞選考結果を見ると、やっぱり淳子さんでホッとしました。そしてsjghdさんと同じく正解だったと思います。それにしても、この年の5人(私的には4人)の競争は熾烈でした。朝からそわそわしてた記憶があります。
すみません。正月早々思い出話に花を咲かせてしまいました。
ついでに、今日、大宮氷川神社に初詣に行きしたが、行きがけに大宮市民会館の横を通りました。
そういえば、淳子さんの関東での最後のコンサートがあったように記憶しています。当時学生で教えてもらった記憶がよみがえりました。残念ながらいけませんでしたが。
つまらないことで思い出すものです。
淳子さんを語ると長くなるのが欠点だとお許しください。
それでは、アプローチは違えど、目指すものは同じということでよろしいでしょうか。
本年もよろしくお願いいたします。
by イワタヤイセタン (2013-01-01 18:14)
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
奥村チヨさん、黛ジュンさん、南沙織さん、天地真理さん 懐かしいですね、、、
自分は、小学生の時は、歌は、大好きでした。1969年くらいからのレコード大賞から見ていました。
イワタヤイセタンさんのように、小学生の時は、特定の歌手は、応援するまでに至っていません。
特定の歌手を応援するに至った(雑誌の切り抜きを集めたり、レコードを買ったり)のは、1973年からです。
その歌手が桜田淳子さんと浅田美代子さんでした。
1973年が、イワタヤイセタンさんがおっしゃる”時代は、コンテンツつまりはアイドル、華を求めていた”に一致するわけですね、、
1973年のレコード大賞の新人賞は、自分にとっても一番印象的でした。
>この年の5人(私的には4人)の競争は熾烈でした。
まさにそうで、赤い風船のヒット(オリコン1位)という点とTBSドラマに出演していた浅田美代子さんやひなげしの花(オリコン5位)や草原の輝き(オリコン2位)をヒットさせたアグネスチャンさんやコーヒーショップで(オリコン9位)とみずいろの手紙(オリコン7位)のあべ静江さんも有力でしたが、オリコン18位のわたしの青い鳥の桜田淳子さんが、レコード売り上げだけでなく、正当派アイドルや将来性を加味されてとりましたね、、、
イワタヤイセタンさんがおっしゃる時代がアイドルを求めた結果でしょうか?
またよろしくお願いします。
by sjghd (2013-01-02 12:11)
sjghdさん
ありがとうございます。
小さい頃から歌謡曲は好きでした。
多分年の離れた姉の影響だと思います。
何せ、姉は舟木一夫、西郷輝彦、橋幸夫「御三家」のファンでしたから。多分舟木一夫だったと思います。
因みに、父は、佐良直美、母は、小柳ルミ子の瀬戸の花嫁でした。
そんな訳で、歌謡曲が身近だったと思いますし、平凡、明星は、姉の愛読書でした。
ロッテ歌のアルバムは、楽しかったですね。
私自身、本心、特定の歌手は、なかったと思いますが、さすがに『花物語』は、痺れました。
暇な日曜日は、番組欄で淳子さんが出なさそうな時間以外は、ラジオでした。
今考えると滑稽なぐらい、自分がかわいいです。
録音テープは、淳子さんだけフェリクロームのデュアドでした。ノーマルなんか使えません、音の細部まで聞き逃すのか嫌だったのでしょう。
こんな思春期が、懐かしいです。
真面目に生きられたのも、多感なこの時期を健全に過ごせたことがあるのかもしれません。
今思えば、自分自身、この時期の淳子さんに対して聖域を作ってしまったのかもしれません。
また、思い出話になってしまい、長くなってしまいました。
sjghdさんにとっての淳子さんは、どうでしたかなんて、聞くのか野暮かもしれませんね。
取り留めのない話しですが、それでは、また。
by イワタヤイセタン (2013-01-03 09:50)