桜田淳子という存在~登場の背景その2 [歌]
歴史は、時とともに、徐々に進化を遂げていく。
しかしながら、ある時期、突然変異的な変化を見せるときがある。
1970年代は、そんな時期だったのではないだろうか。
少し芸能界に的を絞ってみたいと思う。
1970年頃までは日本は、戦後復興の香りがしていたし、アメリカの背中を追いかけ高度経済成長の段階にあった。
特に、テレビなどは生産量を伸ばし、世界一までになった。
そのため、1970年になって、二重価格問題に直面することになる。
日本の外貨獲得が鈍化するとき、消費は国内に向けられていく。
そしてテレビの販売価格が下がったことで、テレビがよりお茶の間に浸透していくことになる。
そんな時代の『バラエティ番組』の変遷という理解でいいと思う。
そして萩本欽一さんの芸能の変遷にその傾向を見ることが出来る。
萩本さんは、70年代、素人をテレビに引き込み、そこから番組作りを進めていく。
プロを出せという人ほど、テレビの素人だ。
という考え方があるという。
逆説的な言い方だけれども、そこにそれまでの舞台や映画とは違うテレビの特殊性があると、萩本欽一さんは考えていたのだろう。
それまで芸能界を支えていたのは、渡辺プロの一極集中的な様相だった。
そこにあるのは、芸能のプロ集団であった。
ところが、素人を、テレビに引き込むことは、芸能のプロが脇に行くことを意味するのかもしれないし、芸の低下を招き、ひいては番組の低下を招くかもしれない。
そこには水面下の戦いがあったことは想像に難くない。
しかしながら、ここにテレビタレントは独自の道を歩み始めることになっていく。
こうして、お笑いの分野では、独自の芸風が進んでいく。
スベリ芸などはその典型となる。
こうした傾向は、歌手という分野にもあり、テレビ局は職業としての歌手を養成するようになる。
それが、萩本欽一さんが司会を務められた『スター誕生』だと思う。
しかしながら、スター誕生の審査員の審査基準は当初明確ではなかった。
テレビ界が求めるスターとはどんなものだったのだろうか。
そこに明快な答えを提示したのが、1972年オーディションに参加した桜田淳子さんだった。
そして、7月の秋田大会、9月の全国大会で、素人には出せぬオーラといっていい輝きを見たとき、審査員を始め関係者の審査基準は決定されたのだろう。
その年の12月、審査員の前に別の才能が登場する。
山口百恵さんだった。
審査員の阿久悠さんは、厳しい注文をつけるが、それは、審査基準からすれば、当然の帰結だった。
テレビが求めたのは、百恵さん的な静けさではなく、淳子さん的な楽天的な明るさだったのだから。
しかしながら、この時代背景を映し出す基準を今の価値観ではかることはだれも出来ないだろう。
それでも、このテキストの正しさは、80年代アイドル文化の隆盛を見るとき、正直うなずける。
そしてこれが、『正統派の系譜』になっていく。
もちろん、山口百恵さんを意図的に外すつもりはない。
80年代以降、山口百恵さん風の人は何人か現れた。
しかし、山口百恵さんを超えることはないし、多分、山口百恵さん自身をもってしても、超えることは出来なかっただろう。
それが、70年代という手作りの時代であり、試行錯誤の時代だったことの証なのだと思う。
瞬間的に時代を超えたという表現でいいと思う。
残念ながら、その時代を超えたとき彼女は引退してしまったのだが。
ここでアイドルとは何か。
もう一度向き合うことが必要なのかもしれない。
当時のアイドルは、テレビが作り上げたと言っていいのだろうが、そこには、作詞家、作曲家を始め、多くの才能が集まり、育て上げてきた。
日本の物作りの原点に、作り込むという職人的な発想があると思うのだが、同じ事は70年代のアイドルにもあった。
そして、その作り込む過程にはファンが参加していたことは、特筆すべき事だと思う。
そして、オーデション出身者は、忠実に再現してきた。
その中心に桜田淳子さんがいたことを改めて指摘するまでもない。
その過程の中で、1973年暮れ決定的な事が起こる。
その年の新人賞を総なめしたのは、桜田淳子さんだった。
それは、桜田淳子さんのその後の活躍を見越してのモノだったことはもちろんであった。
と同時に、渡辺プロ中心の芸能界に風穴を開け、その後のテレビ界のあり方を方向付けるには象徴的な出来事だった思う。
この動画の中で、桜田淳子さんが、『周りの大人たちが、百恵VS淳子』と煽ったとあるが、大人の思惑が、非常に残念なことではあるが、二人の関係を微妙にしたことを指摘しておくに止めようと思う。
それは、恐らく、二人の進化を必要以上に早め、ひいては芸能界を去ることを早めたのかもしれないから。
動画のUP主様に感謝します。
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